横浜中田教会 説教要旨
4月7日

聖書    イザヤ書 第50章10-11節
     フィリピの信徒への手紙 第2章12-18節
     説教題  「神のために生きる」 笹野陽子 牧師

              <説教要旨>

*「こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう」(フイリピの信徒への手紙第2章16節)

*パウロは、今牢獄の中にいて明日の命の危機にありながら、自分のしてきたこと、自分の労苦が無駄でなかったと確信しています。

*なぜなら、フイリピの教会の人々が、よこしまな曲がった時代の中で、キリストの十字架による救いの恵みに留まり、神の子とされて生き続けてくれれば、パウロの人生は「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」ことをみ心とされている神の御計画に生きたことであるからです。

*わたしたちは、自分の走ってきた人生が無駄であるか、ないかを自分の願った人生計画が成るか成らないかと自分の思う利益から考えてしまうことはないでしょうか。

*けれど、聖書は、わたしたちの命は、神がわたしたちに与えてくださった命であり、そして神がその命をまたお取りになる。わたしたちの人生も、わたしたちの願う計画ではなく、神の御計画に従って走る。すなわち、神のために生きるわたしの人生が、無駄ではなく、労苦も無駄にはならないと言うのです。

*神のために生きることは、奴隷のように自分を押し殺して神の顔色をうかがうように生きることではありません。神に命を与えられ、愛され、守られて神のみ前に立つ本来のわたしたち人間の姿に立ち帰ることです。そして神に造られたものが、造ってくださった方の御意志である計画を自分の生きる姿によって現すのです。

*神の御計画(独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る)の完成の日をめざして、今日を生きる。このように生きる時、「キリトスの日に誇ることができる」とパウロは言うのです。

*キリストの日とは、キリストが再びおいでになって救いを完成させられる日です。命を与えられ使命を託された一人ひとりが、神のみ前に出る時、わたしたちは自分のした事ではなく、神が私たちにしてくださった数々の恵みを誇らしく喜ぶことができる。

*神の救いの御計画を知り、そのために生きる信仰者は、キリストの日、終末を見すえて今を感謝しながら走るのです。